昭和43年09月30日 夜の御理解



 九月の月もおかげの中に終わらせて頂きまして、ひと月の事を色々振り返ってみますと、信心もできませんのに色々おかげを頂いて参りました。そのおかげを受けた事に対するそのお礼を申しておりますと、くり返しくり返し限りない程にお礼の言葉が心の中に湧いてきます。本当にひと月散漫な信心と申しましょうかね、有難かったり、有難くなかったり、あいすまん事ばかりであったりでありましても。
 ひと月ならひと月というのを振り返って、本当にあれもお粗末であった、これも御無礼であったとそういう中にもこういうおかげを頂いてといのことをお礼を一生懸命に申させて頂きよりましたら、どういう意味に頂いていいか分かう、その締めくくりをできるということが私は有難いと思うのですね。そりませんですけれども、あの『北極星』ですね。夜空をみますと北極星が輝いておる。
 北斗七星が輝いておる。夜の旅をする人達の目印というか方向、海の航海ではあれがひとつの目印になるということです。あちらに北極星が出ておるから現在の方向がどうだなということが大体分かるわけですね。私どもの信心の目印というか、目当てというか、間違いなく行っておるようであっても、ひと月ならひと月というものを振り返ってみると、方向がちっと間違っておったとか。
 考え方が間違えておったとか、お粗末であった御無礼であったということが、限りなくお詫びさせてもらわなおられんものを、ひと月のうちにも感じます。そこからまた新たに十月の月を迎えていく。十月の月もまた航海を続けていかなければならないひとつの指針というものを、目指しというものができるように思う。お礼とお詫びということが言われますが、ひと月のことをお礼申し上げる。
 またはお詫びを心ゆくまでさせてもらっておる。そこに何かしらんけれども、乾いた時に、お湿りがあって、そのお湿りが大地に浸透していっておる、そう言う様なものを感じますね。今晩の御祈念を頂いて、これは合楽の信心にひとつまた有難いものが増えてくるなという感じがいたしました。今晩の御礼を申させて頂いておりましたらね。ですから私は来月の月末の日は。
 肩のはらない本当にひと月のことを心ゆくばかりに御礼を申させて頂こう、お詫びを申させて頂こうという人達の奉賛を得て、お祭りということのほどしのものじゃないけれども、明日の月次祭の前夜祭にもなるだろう、またはひと月のお礼の、またはお詫びのお祭りにもなるだろう、心ゆくまでお礼を申させて頂こうお詫びを申させて頂こう。そして次の月の目指しを頂こうというように私、考えました。
 ですからそういう意味で、今晩の御祈念が長い長いものであったのは、そういうことでした。本当にひと月のことを。「この月もおかげを頂きましてありがとうございました」と、お礼の中に「本当に振り返ってみますと、お粗末でございました、御無礼でございました、ここも不行き届きでございましたにもかかわりませず。この月もこのようにおかげを頂きまして」という。
 お礼とお詫びが心ゆくばかりにできれる御祈念会をこの次の月の十月はさせて頂こうと、月次祭だから御参りさせてもらわないけんというものではなくてですね。そういう気が今晩しきりにさせて頂いた。今日私今朝からおなかが痛むんですね。何回も何回もお便所に行くんです。おなかをこわしているんです。そしてこの二三日鈍痛を感じていた頭が特に痛いんですね。
 何回も家内と久富先生がもんで下さってから、そしたら気分がいいんですけれども、そういうわけで今日は御広前を御無礼いたしました。それでもやはり四時の御祈念には出らせてもらわんといかんから、御神前に向かわせて頂く気分を作らせて頂いておりました。今日は本当にあいすまん一日であったと思うて四時の御祈念に出ろうと思わせて頂きましたらね。私の心に響いてきますことがね。
 なんという歌でしょうか『一丁目の柳が、という歌があるでしょう。たそがれの銀座』というのですか。私何回も聞いたことがあるんですが、初めの間はそうよくないなと思って聞いておると、あそこの「一丁目のなんとかが」というところ、そこにアクセントができてそこを聞いてこの歌はいい歌だなと、この歌は流行るなと、私一番初めに聞いた時思ったんですけどやっぱ随分流行してですね。というよいうにですね。
 初めからこの歌はいい歌だなという歌もありましょうが、けれども聞きよってから途中からよくなるという、そこにアクセントがついてぜんぜん歌の調子が変わって、そこからこの歌はいいな、いつでも口ずさみたいと言った様な歌がありますように、今日の一日というものが、そういうはああいすまん一日であったけれども、四時の御祈念なら四時の御祈念と言う事になるとそこにひとつのアクセントがついて、心ゆくまで御神前に出てお詫びさせて頂いたり御祈念させて貰ったりする事が出来る。
 だから結局よい歌だということになるのでしょうが、一日の場合でも同じことだ。今日私が申しておりますひと月の場合でもそうなんです。お粗末があり御無礼があるのですけれども、それどもそういう中にこういうおかげを頂いて、そして今日三十日の夜の御祈念にそういうひと月のことをあれやらこれやら思わせてもらい、お礼お詫びを申させてもらい、このようなおかげを頂いてとくり返し御祈念させてもらう。
 ひと月は大したことはなかっても最後の一日でもとをとると言った様な感じがする。そこに信心の心の上に有難いアクセントがつく。そしてこの月も本当に有難いひと月であったなということになる。そういう意味でお互い一日を締めくくっていき、またはひと月を締めくくっていく信心が必要だと、ただ願いのことに、ただ信心を分からせてもらうということに、信心の勉強信心の勉強というておるけれども。
そういうことがそういう事がらおかげ頂きたい。それが人から人へ御信者さんから御信者さんへ心ある人達がそういう御祈念の会に参加されるようになられるとなおさら有難い。これは例えば私一人ででも三十日、または三十一日という日を、ひと月の御礼を心ゆくばかりにさせて頂くようなおかげにしたい。ひと月ひと月のアクセントを作りたい。そして明日への指針をその次の月の指針を心にはっきり定め頂かせて頂こうというようなことを感じました。
      どうぞ。